映画「オデッセイ」を観た。火星に置き去りにされた宇宙飛行士が、次のミッションの4年後まで一人生き延びるために、科学の叡智を使って戦うという話である。取り残された宇宙飛行士マークがまず最初に行ったのは、ビデオに向かって失意の感情を吐露することであった。その後毎日、彼は自分の状況や感情をビデオに向かって語りかけていく。
彼は何と戦っていたのだろうか?火星で生存するために必要な空気や食料、寒さと戦っていたのだろうか?植物学者であり、宇宙飛行士である彼にとって、空気や水を作り、ジャガイモを栽培することは、理性的かつ合理的に知識を総動員させれば難しくないことかもしれない。むしろ彼が本当に戦っていたのは、普段私たちが当たり前に行っている「コミュニケーションの力」を取り戻すことではなかったのだろうか。
宇宙飛行士である彼が自分の状況を記録することは重要なミッションの一つであろう。しかしながら、このビデオに向かって毎日ひたすら語りかける姿は、宇宙飛行士である前に、デジタル社会に住む私たちの姿と重なり合って見えるのである。私たちが日々行っているブログやTwitterでのつぶやき、セルフィ(selfie:自撮り)など、ソーシャルメディア上でのコミュニケーションは、「自己証明欲求」を満たすものであるという。デジタル世界に生きる私たちは、自分という存在を証明したがっている。マークも一人残された火星で絶えず死と直面しながらも、自分が存在し続けているということを、誰よりもまず自分自身に向けて証明したかったのではないだろうか。
地球とコミュニケーションが取れない彼は、16進法を用いてNASAとの交信に成功する。自分以外の他者によって自己の存在を証明できた彼は、救出への希望を持ち、地球そして宇宙の仲間たちと時空を越えたコミュニケーションの力で脱出計画を遂行するのである。無謀とも言える救出計画は、これまでの権力の構図を覆すものであった。いや覆さずには彼を救出することはできなかったのである。救出のためのロケット打ち上げに失敗したアメリカの代わりに、救出の手を差し伸べたのは中国であった。そして新たな救出プランを提示したのは、権威的な科学者ではなく、若いギーク(エンジニアオタク)。実際に宇宙で彼を救出したのは、男性の宇宙飛行士ではなく、女性の船長であった。次世代のパワーが存在感を増しつつある。映画「オデッセイ」は、私に来るべき宇宙時代のコミュニケーションについて実に多くのことを考える機会を与えてくれたのである。
今、人類の夢である宇宙旅行や宇宙への移住計画が現実味を帯び始めている。人類未踏の新たな世界を創るためには、マークの救出計画同様に、年齢、性別、人種、国籍、全てにおいてダイバーシティな力が必要とされている。宇宙に拡がる広大なコミュニケーション空間の中で、自己の存在を証明し、時空を超えて他者とつながり、多様な仲間たちと協働するための「コミュニケーションの力」が以前にも増して必要とされているのである。
高橋利枝(メディア・エスノグラファー、早稲田大学文学学術院教授)