Daily Archives: August 7, 2016

日本のエリートアメリカのエリート

ある夜中国人と韓国人とGPAについて話した事があった。日本の就職ってGPAがなぜこんなにも関係しないのか、文系で大学院に行かない選択肢が当たり前な現状、新卒一括採用の不思議さ、など。その時のつぶやきはこんな感じ。 「一般に日本の特に文系大学生が比較的勉強しない現状は就職活動時にGPAがなんら意味を持たない現状を変えるだけで劇的に変わりそう。市場の小さいアジア諸国やコネ無しカネ無しだと就職がキツい中国では就職時にGPAが異常に重視されているから超GPA気にするしアメリカは言わずもがな」 NPから引用文章。日本の大学の現状について。 牧野 正幸氏 株式会社ワークスアプリケーションズ CEO 2016年08月03日 ⋮ これは正しいことだし、幼児教育も非常に重要だと思う。 しかし忘れてはいけないのは、日本人の教育レベルは高校までは劣ってないという事実だ。確かに欧米流のトップ校のように個人個人が考える教育は受けられていない人が大半だろう。受験の弊害で極めて画一化された教育になりがちだからだ。だけど、アジアの教育に比べて日本のやり方が間違えとはいえない。中国にしろインドにしろ、高校までは日本もびっくりの詰めこみ型だ。 それなのになぜ彼らが、あれほど社会に出てすぐに使い物になるのか? プログラミング教育?NOだ!、職業的訓練?NOだ! 高校までと異なり、自分で考える教育を大学の時代にとことんやってるからこれほど差がつく。米国の大学と比べてるんではないよ? 大学の関係者の方もこの点はよく理解されてるはず。このコトにメスをいれるのは簡単ではない。しかし、手を付けやすい幼児教育改革する前に、もっとも効果の高いモラトリアム期間の大学の卒業の難易度を引き上げなければもうだめだと思う。別に今の時代から駄目なのではありません。昔は日本の企業はまずはルーチンワークで給与分働いてもらいながら、徐々に考える力を身につけさせる余裕がありました。しかしその時間がもうないんです。 大学を改革することが一番重要なのです。   日本・アメリカのエリートの現状についての記事  https://newspicks.com/news/1701043/body/…

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Why am I crying?

なぜ別れ際に泣けてしまうほど、こんなにも気が合う仲間がたくさんできてしまったのか。 図書館で昼寝し、勉強し、授業を受け、メシを食い、観光をし、数えきれないほどのパーティーをし、一緒に飲み明かし、くだらないことから真面目なことまで話し合い、吐いた仲間を皆で介抱し、一緒に叱られ、起きたらまた皆がいて、また起きるといつの間にか七週間が終わっている。アメリカ人の親友いわく、”It feels like, day1, day2, day3, week1, week3, sorry but this is week7. Time passes so quickly.” I agreeである。 思えば高校一年次にイギリスで短期留学した時は、期間はたった4週間だったにも関わらず、最初の2週間組が帰国する際には今以上の、とてつもない喪失感に襲われ、感情的になったことを思い出す。当然、その時も泣いていた。 夏休みにわざわざ大枚をはたいてサマースクールに来る時点で、金銭的な豊かさや家庭の良好な状態、教育水準の高さなどが担保されていて、ただ勉強ができるだけでもただ家庭が裕福なだけでもない、心が豊かで優秀な学生が集まるのは自然なことだったのだ、だから潜在的に気が合う仲間になりうる生徒の比率が高くなるのは当然である、と説明されればなんとなく納得が行く気はする。様々な非日常的を共有し、新鮮で好質なストレスに晒されて、なんとなく高揚感に包まれているという、環境的な側面も大きいかもしれない。 ——   人の気持ちを知ることができる、だからコミュニケーションスタイルを合わせて誰とでも仲良くできる、というのは兄にも父にも共通した資質である。しかし、幼少期に人見知りだった自分がサマースクール最終日に”the most communicative student”として表彰されたことには家族全員が驚いていた。僕の父は当時ラインでその報告を受け、涙をこぼした。 留学をすると分かる当然のこととして、「人は分かり合えないことよりも分かり合えることのほうが多い」というものがある。そして意見に「絶対」など存在しないという事実と、みんなあらゆる点で違っていて当たり前だよね、という気持ちにもなる。もちろん自らもその「違う人々」の一員であるので、必ずしも他人の言動すべてを許したり好意的に接することはできない。けれど、それを「合わない」とマイナスに捉える必要はなくて、「違い」としてニュートラルに客観的に捉えることが大切だなと気づく。そして、「というかそもそも日本人同士でも皆違いません?!」となる。東京人同士でも日本人同士でもアジア人同士でも皆違うのと同時に、やはり「人は分かり合えないことよりも分かり合えることのほうが多い」のである。アメリカ人だろうとインドネシア人だろうと人間として共有している部分は多い。たくさんの人間が言葉を話すし、空を飛べない。 違いや受け入れられないものをそのままで中立的に残したまま、同時にある人の中に存在する「絶対的な良さ」みたいなものを見つけられれば、最低限その人を尊重することができる。また同時に、その違いからなにか盗んで自分の糧にすることができる。こういう姿勢の中でたくさんの経験をして沢山の人に出会っていくことが、毎日の自分をbetter version of myselfとして磨いていく方法の一つになるかもしれない。 また、サマースクールのように、そのコミュニティの何らかのスクリーニングによって「絶対的な良さ」の比率が高い人が多いコミュニティはやはり存在する。そのスクリーニング基準は学力かもしれないし体力かもしれないし財力かもしれない。言葉では定義できない微妙なコミュニケーション感覚かもしれない。いずれにせよ、少しでも自分を高めることによって少しでもスクリーニング基準の高いコミュニティに飛び込み、その中で仲間を見つけて成長してさらに違うコミュニティに飛び込んで、というサイクルによって、自分の人生を豊かにすることができるかもしれない。この時、自分の効用を高めてくれる人ってどんなんだろう?自分ってどんな人だろう?というのを知っておくことは、自分のありたい姿と進む方向を決めるにあたって大変重要なので、やはり言語化して自分をよく知ることも自分にとってかかせない大事な作業であるだろうから、evernoteであれブログであれ、細々と続けていくことが望ましい。 ※いくつか今後書きたいことたちがオーバーラップしてしまったのと、だいぶトピックから逸れてしまったので、後日break downする。

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ニアミス

単位時間あたりの授業料が(休講とかのせいで)関東一高いと言われている我が母校だが、先日中1から教わっていた英語の先生とハーバードでニアミスをした。結局お互いの都合により挨拶をすることすら叶わなかったが、FBメッセンジャーで先生は「素敵なニアミスだね」と仰っていた。 母校の英語科には卒業まで大変お世話になった。高1の頃から英語にのめり込みだした自分は、周りに比べていくらか可愛がってもらえていたような気がする。 中1から「発音」に特化したオリジナル教材を使った発音の講座が設けられていた。発音記号から始まりf, v,r,lの音の区別、発音のパターンなど、今考えると不思議な授業だった。筆記偏重の日本の英語試験ではせいぜいセンターにおける数点分の稼ぎにしかならなさそうな話だが、話すツールとして学ぶ上では欠かせない学びだったと感じる。英語プレゼンの授業や文法全振りの授業などバラエティに富んでいて、意欲的な生徒にとっては中々イイ感じの授業が提供されていたのかもしれないなどとも思えてくる。何かと自分のペースで自分のやり方でやりたい自分にとって、拘束が少なく自由にやりたい通りに進められたことも今では良かった気がする。思い出とは総じて後付けで美化されがちである。 英語を学び始めた時に出会った先生と、英語を使って留学している最中にニアミスするというのはなんとも言えないものがあった。先生は、これからMITの武蔵OB達を含むアメリカの研究者たちとの会食とのことだった。いつか自分も先生達と楽しく飲めるような何者かになりたいと思った瞬間であった。帰りの飛行機ではハリーポッターの新巻を楽しむことにした。

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